バルーンと縫い針1

家は書くもので自分を語るし、また、そうあるべきだと思う。絵かきは絵で自分を語るし、そうあるべきなのだ。それに自分のことしか話さない人間は、だいたいにおいて嫌われる。わたしだって目の前の人間が延々自分のことばかり話していたら、どんなにおいしいケーキが目の前にあったとしても表情が曇る。

 

 

しかしながら、自分のような馬鹿な人間の自意識はいつのまにか自分の中に溜まっていく。これは自然現象だ。工場から川につながる排水口の真下、水底のヘドロのように、毎日着実に、ふりつもるように肥えて醜く淀む。そしていつか爆発する。汚泥をつめてふくらんだ水風船にすこしとがった針が刺さった、それだけのきっかけで破裂し、周りに汚いものを撒き散らす。具体的に言えば、手当たり次第の友人にド深夜の電話をかけて迷惑をかけたりとか、解決策の見えない暗い話を延々するとか、そういうことをする。死にたい、とかいう。

 

そしていま、わたしの自意識のヘドロ風船は爆発寸前だ。ツイッターなどのSNSでリアルタイムな排出が許されるようになって、多少の承認を得やすくなっていたとしても、それは多少のガス抜きにしかならない。所詮スナック菓子でしかない。そんなことではわたしの煮凝った自意識はびくともしないしどうにもならない。だからここでは徹底的に自分のことを書く。見る人が見たらたぶん身バレもする。それでいいと思う。広大なインターネットの数キロバイトをわたしにください。ここに自分についての恥ずかしい記事を書けば、他人を延々とイライラさせる迷惑をかける機会を増やしたり、よくしらない国のことや芸能人を誹謗中傷した(ことはないけど)りしせずに済む気がするから。

 

 

たしは平成元年の4月1日、00:00きっかりに、S県のちいさな病院で産まれた。助産師は産まれてきたわたしを見て「この子は賢くなる!」と言ったらしい。たぶんどの赤ん坊にも言っているし、彼の勘が当たっているかどうかわたしは判断したくない。

ちょうど父方母方の年寄りがバンバン死にまくっていたころだったため、新しい命が出てきたことは親戚一同にとって非常にハッピーなニュースだったらしい。わたしは大勢に祝福され、もてはやされ、超スーパーかわいがられた。希望のマスコットみたいな存在だったのだろう。

 

父親は超高学歴の変人で、そのころ予備校教師だった。母親は高校の教員をしていた。父親は本の虫で、母親は父に比べれば社交的でほがらかで、おおらかな人間だ。父は頭がいい。数カ国語に造詣があって、60歳のいまでも東大の赤本を各教科スラスラ解いてしまう。母親はそんな父親と自分がつりあわないのではと悩んだこともあったらしいが、わたしからしたら父親の人間として足りない部分を母親がカヴァーしているいい夫婦のあいだに生まれることが出来たと思っていて、心から感謝している。

 

 

幼稚園にあがるころ、妹が生まれた。彼女が生まれた頃のことはよく覚えていない。オギャオギャいう変なメンバーが加入した、くらいに思っていた気がする。わたしは1歳半くらいですでにある程度言葉をつかえるようになっていたし、3歳頃にはいっぱしの口をきいていたので、この世のことは何もわからないぞ?みたいな顔をしてベビーベッドに寝ている妹をかわいそうに思い、彼女にひらがなを教えていた。そんな写真が残っている。


そのころわたしにはEちゃんというお友達がいた。近所に住む女の子で、イギリス人とのハーフだった。家族ぐるみで付き合いがあり、気が強い子でよく泣かされた。公園で泥まみれになって遊んだり、土手で花をむしって下手な冠を作ったりした。幼稚園が別々になっても、彼女とは友達だった。いま彼女は非常に美しく成長し、モデルをやっている。テレビCMや、山手線の車内の電子広告で彼女を見ることができる。長いこと会っていないがわたしのことは覚えていてくれているらしい。なつかしくて、本当に会いたい。

 

 

 

幼稚園では、本をよく読んで、咲いている花を延々と見つめ続ける変な子だったらしい。園長先生はいまだにわたしのことを覚えていて、それというのが、タンポポの根がどこまで深いのかを知りたかったわたしは休み時間もお遊戯の時間もお絵かきの時間もつぶしてタンポポの根元をメートル単位で掘り返していたらしいのだ。園芸の土だってただじゃない。本当に迷惑な子供だったと思う。

本はよく読んでいた記憶がある。両親共働きで迎えがおそいときなど、ずっと図書室にいて本を読んでいた。おかげで卒園の頃には図書室にある本はすべて読みきっていた。とくに植物の図鑑が好きだった。赤い実のなる植物にあこがれていて、あまずっぱさを想像しては悦に浸った。それを絵に書くのも好きだった。自分だけのお話を作っては絵本のようにしてホチキスでまとめて母にプレゼントしていた。

 

また、このころわたしは初恋を経験した。Y君という男の子で、ピンク色が好きな男の子だった。バレンタインデーのお返しにと、テディベアの絵が描かれた缶に入った飴をくれたのが嬉しかった。その缶はいまでも持っている。

はしめての疎外感も、このころ味わった。仲のいい友達が、もうあんたとは遊ばない、と突き放してきたことがあった。運動会の組み分けの色が、彼女たちは赤でわたしは黄色だったからだ。赤はいちごの色だからかわいい。黄色はダサいからもうあんたとは遊ばない。という弁だった。わたしは黄色はバナナの色なんだからダサくない、一緒に遊んでほしいと言ったが、彼女達はケラケラ笑うとどこかに行ってしまった。肌寒い廊下でわたしはひとりだった。

 

 

 

 

卒園と、弟の誕生と、いまの実家への大規模な引越しは同時だった。Eちゃんと別れ、古いアパートも幼稚園とも別れることになったわたしは泣いたけれど、そのあとのめまぐるしさにすぐに気を取られてしまった。

弟の誕生には、わたしはあまり興味が持てなかった。6歳も年下で、異性である。よくわからない新メンバーだった。実家の祖父母もわたしにとっては新メンバーだった。春の田舎は草の匂いに満ちていて、道端の花がまぶしいくらいに光っていた。


 

小学校では、顔の整っていて人気があったクラスの女の子と通学班がかぶり、すぐに友達になった。

彼女の家には漫画とゲーム機があって、わたしはそれらにはじめて触れて、興奮した。はじめて読んだ漫画はコナンだった。それまで親の教育方針として、漫画やゲームと縁のない生活をしていたわたしにとってそれは革命だった。小学校3年生のころには漫画のまねをノートやチラシの裏に描いていた。最初はコナンの絵を真似しているだけだったが、そのうちオリジナルキャラを描くようになった。わたしの描く絵の人間の耳がコナンの作者が描く耳と同じなのはこういうことである。怪盗キッドに恋焦がれ、グッズを親にねだった。少年探偵団も友人で結成した。消しゴムがなくなったから探して欲しいとクラスメイトに頼まれたら探偵団で必死にさがした。アジトが欲しい!ということになって、雑木林にテントを張って秘密基地を作った。

 

 

そのころから、わたしは徐々に目立つことが好きになり、変人と呼ばれることに快感を覚えるようになっていった。周りのイケている女子がSPEEDや嵐が好きで、パラパラを踊っていたりするのを鼻で笑い、オリキャラが随所に登場する校内新聞を独自に刷っていろんなところに貼り付けた。寒さ対策にアルミホイルがよい!というテレビを見てひらめいたわたしは、冬の間アルミホイルを頭に巻きつけて登下校をした。異様な子供だったと思う。完全に気が狂っていると思われても仕方ないし、あのころに戻れるなら自分に平手打ちをしたい。

幸か不幸か、歴代の担任も変人が揃っていて、理解してくれる大人にめぐまれてわたしはすくすくと変な方向に成長していたのである。

高学年になってONEPIECEにハマっていた私は、ゾロにあこがれて剣道をはじめたがったが、図書室で剣道入門の本を借りて読むだけに終わった。試合前日は緊張してもかならず寝よう!というコラムが好きで繰り返し読んだ。結局のところ、寝たかっただけなのだ。

例に漏れず、将来の夢は漫画家だった。児童館の職員だったロリコンっぽいお兄さんに、同人誌即売会というものの存在を教えてもらったのもこのころだった。同人の存在がよくわからなかった私は、そのときハマっていたYAIBAや封神演義に、全知全能のオリキャラを出演させて脳内でアニメを見ることのほうが楽しいや、と思っていた。

ゲーム機は買い与えてもらえなかったが、ポケモンは親戚のお兄さんのお古をもらって徹底的にやりこんだ。コアな攻略本を読み込み、ピカチュウバージョンで既に努力値や個体値にこだわって、最強のラッキーを作っていた。

 

また、山の会のような、ガールスカウトのようなものに入会してキャンプなどをした。かなりサバイバルな体験もしたし、植物図鑑で得た知識が日の目をみた瞬間だった。わたしはそこでも変な子として目立つことができて満悦した。

ただ、サバイバルに必要なロープの結び方だけは、いくら練習してもできなかった。蝶結びができるようになったのも、5年生くらいのことのように思う。

 

 

実家は学習塾の経営を始め、わたしもそこに通っていた。親は夜遅くまで生徒を教えていたので、祖父母と過ごす時間の方が長かった。母はまだ、朝方にも会えていたが、父と顔を合わせるのは日曜の夜くらいだった。

勉強はいままで読んだ本の知識の貯金でスムーズだったが、机に向かって集中する、ということが苦手だった。

書道とスイミングとピアノを習っていたが、どれもこれもそこまで好きではなかった。イラストを描くことの楽しさに勝てるものはなかった。

 

ちなみに、このころの妹と弟に関する記憶はほとんどない。そもそも、家族に関する記憶が、異常にぼんやりとかすみがかって思い出せない。妹とはごっこ遊びをしていたな、とか、弟がはじめてしゃべったときのことや入院したことはふんわりと覚えていても、深い思い出がほとんどない。何があったのだろう。忘れたくて忘れているのだろうか。よくわからない。

 

 

 

 

自由奔放に生きていた小学校時代がおわり、わたしは地元を離れて、となりまちの私立中学校に進むことになる。

そこで待っているのはドストエフスキーのような重く陰鬱とした思春期の入口だった。

ただ、もうそろそろ一記事の文字数の限界が来る。

しかしながらわたしの自意識はまだ文字を必要としている。いくつかにわけることにして一応ここで切る。